古川寺境内の代表的な建物や仏像をご紹介いたします。
古川寺の建物
現在の本堂は、棟札によると宝暦七年(1757)に、木曽宮越の大工傳左衛門が棟梁となって建立された。この棟梁は宝暦十年(1760)光輪寺薬師堂棟梁となった中村傳左衛門季利と同一人物と思われる。本堂は、いまでは萱に鉄板をかぶせてあるが昭和四十六年(1971)までは萱葺きであった。
観音堂は、上條佐渡守信鄰が天文年間(1532〜1555)のころ寿命長久のため祈祷寺として建立したと伝えられる。観音堂は、谷口から少し離れた延命や観音堂という地名の所にあったという説もある。古川寺に残る棟札には、寺が荒廃したが慶長のころ観音堂が再興された。そして現在の観音堂は享保六年(1721)の再建とある。しかし、この観音堂外陣の大虹梁の中央や屋根側面の妻飾りにある大瓶束の菊花形の結綿は、木曽代官御家大工田中庄三郎の流派でのみ使われたもので、建築史見地から見るとそれよりも古い寛文年間(1661〜1673)という説が有力である。寛永年間(1624〜1644)に仮堂ができ、資金が集まり寛文年間に完成、元禄二年(1689)に屋根の萱を葺き替えたとき向拝を新設したといわれる。
観音堂は普門堂、円通殿とも呼んでいたが、現在は大悲殿の額が掲げられている。
現在の観音堂は山腹を削り平らにして、自然石を礎石として南向きに建っている。入母屋造りのお堂で、現在は鉄板葺きであるが、昭和の初めころまでは重厚な感じの萱葺きの屋根であった。観音堂外陣の格天井(ごうてんじょう)は、天女が描かれているが近年修復された。外陣には俳句の奉額がかかっている。江戸末に俳句が流行したころ外陣で句会などが催されたのであろう。
鐘楼門は江戸期のもので、北安曇郡池田町の廃寺から移築され、戦前は鐘楼門の階上を鐘楼として使っていた。
戦前は鐘楼門の階上を鐘楼として使っていたが、戦時中に鐘を金属供出したので、昭和五十八年(1983)に梵鐘を再び鋳造し、翌五十九年に現在の鐘楼を建てた。
古川寺の仏様
古川寺では宝暦年間に本堂が建てられたときに、大日如来を安置、脇侍として毘沙門天立像、不動明王立像を安置したと伝えられている。
大日如来坐像は、大衆を仏に組み込み悩みを悟りに転じる智拳印を結んでいる。大日如来は、摩訶毘盧遮那(まかびるしゃな)如来ともいう。奈良東大寺の大仏も盧遮那仏で、太陽神崇拝にもとづいて考えだされた仏である。大日如来は、盧遮那仏の考えをさらに広げた宇宙の根本仏といわれる。大日如来が、宝冠や胸飾り、瓔珞(ようらく)をつけるのは王者の威厳を示すものである。大日如来には、理徳を示す法界定印を結ぶ胎蔵界大日如来像と、知徳を示す智拳印を結ぶ金剛界大日如来像があり、古川寺は金剛界大日如来像である。
H113.0cm×W56.5cm×D56.5cm
現在寺に伝えられている不動明王立像は、桂材、寄木造、江戸中期の作で現在の着色は後のものと思われる。
頭部は耳前で前後に矧ぎ、内刳りをして玉眼を入れている。体躯、腕、足先などで矧いでいる。不動明王は大日如来の化身、あるいは大日如来の心の決意を表した姿と言われる。寺伝では、明治初年ころまでは不動明王立像が本尊であった。
H82.8cm
古川寺の毘沙門天立像は内部に寛政四年(1792)の墨書がある作で、右手に三叉戟を持ち、左手に宝搭を捧げ当初の着色が残っている。
毘沙門天とは、四天王の一尊である多聞天のことで、独尊として安置する場合に毘沙門天と呼ぶ。インドでは財宝神で武神ではなかったが、中国に伝わる過程で武神と崇められるようになった。毘沙門天は、帝釈天の配下として須弥山の北方(須弥壇の右奥)を守る。密教では十二天の一尊とされ北方を守る神でもある。また日本では、七福神の一尊とされ勝負事の神になっている。毘沙門天の尊容は、日本では武将風であるが一定していない。
古川寺の毘沙門天立像は、踏まれている邪気のゆったりした表情が印象に残る。
H133.5cm×W58.5cm×D39.5cm
観音堂の本尊木造聖(しょう)観音菩薩立像は室町時代の作と言われる。明治三十三年(1900)名古屋光彰館発行の資料を見ると古川寺の本尊が聖観音像と記され、脇立が地蔵菩薩像、薬師如来像となっている。なお、資料にある地蔵菩薩像は、現在本堂にある像であろう。
聖観音は、本来は勢至菩薩とともに阿弥陀如来の脇侍になる。宝冠には阿弥陀如来を化仏(けぶつ)としていただき、白肉色で手に赤蓮華を持ち、右手で蓮華を開こうとする姿が多い。多くは蓮華坐の上に立っている。化仏とは、仏が形を変え人間の姿をとって表れた形をいう。古川寺聖観音像の化仏は作像当初からのものと思われるが、綬帯や蓮台、光輪、宝冠、末敷蓮華、胸飾りなどの部分は後補であろう。
ふつう観音様というときは聖観音のことを指し正観音とも書き、千手観音や如意輪観音などの本体の姿である。観音とは菩提薩埵(ぼだいさった)の略で悟りを求める姿である。釈迦が出家する以前の姿と思えばよい。菩薩は仏になる修行と同時に、人々を教え導き、救おうとしている姿なので温容な印象を与える。古川寺の聖観音は、右手は説法印である上品中生印をとっている。印はそれぞれの仏像の法徳、本誓を示すのでどのような意味を持つか、機会があれば住職に聞くか調べてみるとよい。
観音堂の聖観音菩薩立像は、現在は秘仏とされ御開帳のときにしか拝することができない。この像は、かつては雨乞い観音として知られたが現在は厄除け観音として信仰を集めている。
H97.0cm 台座を含む全体の高さはH137.0cm
観音堂には、内陣に制作年代不明の古い高さ56cmの木造の僧形像がある。この像は、おびんずる様か否かは定かでない。
外陣に近年漆で塗りなおされたおびんずる様がある。おびんずる様とは、十六羅漢の第一人者で神通力がありすぎて仏陀に叱られ、南方で人々の斎度につとめた賓度羅跋羅惰闍尊者(びんどらばらだしゃそんじゃ)をいう。羅漢とは阿羅漢、つまり悟りを開き人々の供養を受ける境地に達した人のことである。阿羅漢の略である羅漢には十六羅漢、五百羅漢などが知られている。
おびんずる様は、日本では本堂の外陣に置かれ、自分の患部と、おびんずる様の同じ場所をなでると快癒すると伝えられ現在も続いている風習である。おびんずる様は、体の各所を多くの人の撫ぜられ摩耗してツルツルになる。それでツルツル頭を「おびんずる」という所もある。
写真:僧形像 H56cm
現在、地蔵堂には木造延命地蔵菩薩が祭られている。江戸安永二年(1773)の作。差し首で、背部には空洞があり、延命の願に関するものが内蔵されていたと考えられるが、現在は失われている。
H114.5cm×W42.5.5cm×D32.5cm
文:朝日村ふるさと探訪「朝日村を歩く」(朝日村教育委員会発行) 写真:宮嶋 洋一