古川寺について

古川寺(こせんじ)は、古見の旭城山の西南に開けた山麓に位置し晴天の日には寺の山門前から八ヶ岳が遠望できる。中庭を囲むように鐘楼門、庫裏、本堂が東面し、延命地蔵堂、観音堂が南面している。古川寺は真言宗智積院智山派で延命山古川寺と称していたが、昭和二十八年(1953)から高野山金剛峰寺高野派に替わり普門山古川寺と称している。

古川寺の開基は平安後半の永長年間(1096〜97)と伝えられている。古川寺裏の沢から尾根を千五百メートルほど登った所にある慈眼山清水寺が古川寺の奥の院で、阿蘭若が保持していた祈祷寺であったともいわれている。

武田家の統治になり室町時代末の宝暦十三年(1531)に、上條佐渡守信鄰が古見の城主に任じられた。佐渡守の郷里、韮崎の庄には旭山があったことから旭城とした。旭城の近辺には火薬の原料になる石英が出たといわれる。上條佐渡守は、延命長寿を願い永禄(1558〜70)年間に現在の古川寺より西の山際の延命から観音堂を川取沢(かとりざわ)に移し、普門殿(観音堂)を建て中興したと記されている。古川寺は、古泉寺、広泉寺と表されたこともある。現在の観音堂は寺伝では享保年間とされるが、建築様式から推定すると木曽代官山村家御大工田中庄三郎の流れをひく木曽大工により十七世紀後半に建立されたという説が有力である。

古川寺本堂慶長十九年(1614)、松本藩主小笠原秀政の加護を得て寺を修復、不動明王を本尊とした。現在の本堂は、棟札によると宝暦七年(1757)に、木曽宮越の大工傳左衛門が棟梁となって建立された。この棟梁は宝暦十年(1760)光輪寺薬師堂棟梁となった中村傳左衛門季利と同一人物と思われる。本堂は、いまでは萱に鉄板をかぶせてあるが昭和四十六年(1971)までは萱葺きであった。古川寺は、山肌を削り均して石垣で土留がなされている。石垣は、高遠の石工によるもので見事な石積みがなされている。庫裏は、天保三年(1832)に建てられ、あわせて本堂(仏殿)の改修などが行われた。庫裏には隠し部屋や落し穴などがあり、寺院が砦や駆け込み寺の役を果たしていた名残と伝えられている。江戸期の鐘楼門があるがこれは北安曇郡池田町の廃寺から移築され、戦前は鐘楼門の階上を鐘楼として使っていた。戦時中に鐘を金属供出したので、昭和五十八年(1983)に梵鐘を再び鋳造し、翌五十九年に鐘楼を建てた。

拡智学校跡慶応四年(1868)に神仏分離令が出て、松本藩ではその影響が大きかった。しかし朝日村は高遠藩の飛び地で、廃仏毀釈の影響を受けなかった。ただ古川寺は、明治七年(1874)四月から三ヶ月間、拡智(こうち)学校として使用された。これは明治五年(1872)八月政府から出された「学制及学事奨励に関する仰出さる書」に基く措置と考えられる。当時の筑摩県では廃寺の半数以上を学校として利用したが、古川寺は廃寺ではないので学校は短期間で別の場所に移された。